自己破壊的?日本の民主主義は難しい
きょうテレビで、『太田光の私が総理大臣になったら』を見てて、民主主義は難しいな、とつくづく思いました。
この番組を見たことがある人はわかると思うけど、「爆笑問題の太田光が扮する内閣総理大臣の元に、各界で活躍する著名人らが“議員”として集まり、「小さな政府」の臨時国会を開催するという設定で繰り広げられるトークバトル番組である。 日本の様々な社会問題を解決するために太田が掲げたマニフェスト(議員側がマニフェストを提示することもある)に対して、議員らが賛成・反対・保留の3つの立場に分かれトークバトルを繰り広げる。トークバトル終了後、議員らによってマニフェストの採決が行われ、可決か否決かを決める」
というような内容。
これを見てもわかるように、太田光は漫才師という立場ながらも政治について発言することができるし、議論を交わすことができる。これが民主主義の「俺にも意見を言わせろ!」っていう象徴的な番組でしょう。アメリカでも「陪審員」という裁判制度がありますが、これも同様。
ところが、やっぱり民主主義というのは人と人との関わりが共産主義よりも強いので(民主主義の対立概念だとは思わないけど)、「立場」「ステータス」といった外的な環境で言論の影響力が左右されることもある。
この番組でも、ゲストできた元政治家や、現政治家の人たちが太田に対して「所詮お前はお笑い芸人だろ!」といった態度でふんぞり返っている人たちもいないことはないですが、彼らの言いたいこともわからなくはない。
結局、民主主義っていうのは言論の自由が保障されているけども、それに伴う「義務」「責任」、様々な「弊害」というのが軽視されていると思うから。アメリカでは陪審員という裁判制度があるけど、これも「俺にも意見を言わせろ!」的制度であることは明白だ。しかし、陪審員が放つ発言一つひとつに、「責任」といった問題と隣りあわせになっているのだ。それだけ「覚悟」が必要なのかもしれない。
現在の日本でも陪審員制度を適用させるか議論されているそうだが、現状では難しいだろう。裁判官と一般国民との「乖離」をなくすため、といったような漠然とした理由だけでは、適用させるためのストロング・ポイントが弱いように思える。
話がそれた。。。
日本で民主主義が興隆し維新期を越え、デモクラシー期に入った頃、寺内正毅はこう発言している
「貧賤階級は、いわゆる一知半解の新思想に囚われ、分外の望みを抱く状態にある」
貧賤階級=一般市民のことで、一知半解=断片的な知識のことだ。
つまり、一般市民はロクな知識もないくせに、偉そうに口を出すな、という意味だ。しかし、これ以上に重要な言葉がある。
それが「分外」という言葉だ。分外=身の程知らずという意味だが、分をわきまえろ!ということだ。
そうだ。これが一番重要なのでは。アメリカの陪審員にしろ、それなりの「覚悟」や「責任」を伴っていると思うが、それ以上に「分をわきまえ」た発言をしているからこそ、成功しているのではないだろうか。
だが、ここで大きな矛盾が生じてしまうのが難しいところ。
「分をわきまえろ」という言葉を盾に取り自○党などが言論統制などを始めてしまえば、それは民主主義とは言わず、独裁政権という。となると、こんどはその自○党の人たちが分をわきまえていないという無限ループ。
それゆえ、共謀罪なんかとも関係してると思うけど、日本では「白黒」の境界を引くのが本当に下手糞だ。とういうより、日本にはその文化がない。だから「脳死」の問題でも30年前に欧州で議論し尽くされたことを、今になって日本は議論している状態だ。
結局何が言いたいのかわからなっちゃったけど、こういう状態だと「民主主義が自己破壊してる」といってもいいと思う。
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