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2007年10月13日 (土曜日)

牛丼といえば

こないだ、中途半端な時間に学校が終わったにもかかわらず、小腹が空いていたのでとすき家に行きました。

最近は、以前に比べて食欲がとても旺盛になりました。バイト先で賄いを食べるんですが、全部食べれないことや、全部食べれてもそのあとずっと気持ち悪い思いをしたことが多々あったんですが、今はそれだけじゃ足りないな、と思うくらい。なぜかはわからないんですけど。

そこですき家のねぎたま牛丼を食べて思ったんですが、やっぱり牛丼は吉野家だな、と。

吉野家はゴハンが美味しい。

松屋やすき家と違うのはゴハンですね。

当然、松屋よりも吉野家、誰がなんと言おうと吉野家です。

まぁ食欲が満たせればよかったので、味についてはあまり追求はしていなかったんですが、そのときの状況を受けて、あることを肌身で感じました。

『AERA』という雑誌を見ていたら、某巨大牛丼チェーン店の中が描かれている風刺画を見ました。

それを見て思った感想が「単なる栄養補給の場」としてのそれでした。

店員はガソリンスタンドで使う、油を注ぐホースを持ち、無表情で客の前に立っています。

確かに、その状況は無機的であり、非人格的で、彩りはなく殺伐とした雰囲気があります。まさにそれは「食」の楽しみを現代人から奪っている印象があります。

戦後間もない頃は食べるものがなかったそうです。

だからみんな生きるために食べていました。

でも今は違います。

グルメのテレビ番組、雑誌、インターネットでのメディア媒体が増え、食べるために生きる、といっても過言ではない状況です。まさに戦後のそれとは価値観が逆転しています。それだけ、日本の経済が発展し、近代化したということでしょう。

ただその一方で、牛丼屋のような、単なる「栄養補給場」の需要も高まっているのはなぜでしょうか。

多木浩二さんの『都市の政治学』を見ていると、現代においてシステム化し、機械化したのは政治や経済だけでなく、都市においても機械化は進んでいるそうです。

機械化するとはどういうことかというと、時間、金銭的コストの無駄をなるべく削ぎ落とし、合理化を図るということです。

では、牛丼屋はどうか。

「安い(=金銭的コストの削減)、早い(時間的コストの削減)、美味い」というあまりにも有名になった標語は、まさにその機械化、システム化が引き起こす合理化された状況とマッチします。

その牛丼屋が都市に氾濫しているということは、都市においてもシステム化され、機械化されている、という多木浩二さんの主張は納得がいきます。

確かに気軽に食べられ、いつでも入れて、それでいて安くてそこそこ美味しいっていうのは現代人が求めているものかもしれません。コンビニエンスストアや携帯電話機能の多岐化を観てみても、日常において便利なもの(=合理化されたもの)を求める現代社会では、有機的な人間関係を築くよりも、無機的でシステマチックなつながりのほうが重要なのかもしれませんね。

個人的には後者の社会のほうが住みやすくて好きなので、特に文句はないんですが。

1960年代にあったユートピア志向っていうものが何なのか想像もつかないので、現代の環境が、自然とそういうシステマチックな考えにさせているのかもしれないんですけど。

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